正常と異常の間

文筆家三浦純平による、思想、政治、映画、笑いなどの感想録

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まだアクセサリー部分でどのようにレイアウトをするかで頑張っている段階なので、
内容がゼロなことに関してはもう少々お待ちいただければと思います。

これから様々な活動を展開していくのでよろしくお願いいたします。

Junpediaまとめ 2013年2月2日~2月4日

「Junpedia」

exmirann99が編集するWeb辞典・事典。基本はWikipediaを参照する。

 

 

「船頭多くして船山に登る」

指図する人が多過ぎるとかえって統率がとれず意に反した方向に物事が進んで行くことの意。(Wiktionary参照) 例えばこういう事。

 

「占領(せんりょう military occupation)」

他国の領土、拠点、政経中枢などを軍が占有・占拠すること。(Wikipedia参照) 例えばこういう事

 

「CD」

アルファベットのA、Bの後ろに来るアルファベット文字。発音はたまにシーデーとなる。 例文:電話で相手にBかDかうまく伝えられない時に使用する。「A,B、―のD(デー)です。」

西尾幹二『ニーチェとの対話』(講談社現代新書)

 評価★★★★★★★☆☆☆

 西尾幹二氏については保守派の重鎮であるという事くらいは知っていた。
 また、ドイツ哲学者(ショーペンハウアーなど)の著作を訳したり、「ニーチェ研究者」であるという事―吉本隆明氏がどこかで言っていた事―を知っていた位で彼の著作に目を通した事は今までなかった。
 僕の西尾氏に対する印象―テレビなどで映る彼―はひどく神経質で気難しい人というものであったから、古本屋でこの『ニーチェとの対話』を買った時にもニーチェについて神経質に偏執的な文体で語っているのだろうと高をくくっていた。
 だが、この予想は良い意味で覆された。
 そして本書を読み終えた今、西尾氏のおおまかな主張には「ご説ごもっとも」と言う気にさせられたのである。

 本書は1978年初版。ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を西尾氏の人生経験の範囲で解釈するというエッセイ風の評論である。
 西尾氏の「高貴な生」を如何にして生きるかという苦悶がこの書に反映されている…というか本書は「西尾幹二の問題」を明らかにする本だという方が正しい。
 体裁としては「ツァラトゥストラ私評」という副題がついているように、ニーチェの思想を問題にしているようにみえるが、事実は違う。
 それぞれの章の主題について『ツァラトゥストラ』やニーチェの主著からニーチェを語るというやり口を取っているものの、それに付随した戦後日本を語る西尾氏の高揚した問題意識がニーチェを徐々に追いやっていき、分量としては西尾氏の問題意識を語っている方が多いのではないかという気がした。
 だが、そもそもそれは「まえがき」において西尾氏が名言している事であり、西尾氏が引用しているニーチェの言葉にも、

 「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけなのだ。」(P.7)

とあるのであるから、目くじらを立てる必要もない。

 加えてその西尾氏の戦後日本の問題―大衆・競争・福祉・教育―に対する見解は正確であり、何も本書の価値を軽減するものとして西尾氏の見解は現れるのでなく、ニーチェ解釈と西尾氏の問題意識が良い相互作用をもたらし、僕の読後感を満足させるに至った。
 西尾氏の問題意識について具体例を挙げておけば、福祉つまり生きる事そのものを目的としてしまう思想にはニヒリズムが忍び寄るという事。高き生への希望をその思想は無自覚に粉砕するに至るであろうという事。

「今日の世界に私たちの達成するいかなる理想や目標が存在するであろうか。万人に共通するいかなる生の意味が存在するであろうか。福祉充実であれ、産業維持であれ、個人も国家も、よりよき生活を目標にする以外に、生活の目標を立てようがないのである。よりよき生活とは、少しでも便利に豊かに暮すための単なる条件づくりにほかならず、われわれはなにかのために生きるのではなく、結局、生きるために生きる以外に生の目標を立てようがない。ということは、目標は存在しないということにほかならず、したがってこれほどひどいニヒリズムはないともいえる。」(P.90-91)
 70年代の時代状況を指して西尾氏は言われたのであろうが、今日の日本にも十二分に当てはまる。

 また「言語について」と題された章においての言葉に関する西尾氏の見解も短い章であるにも関わらず、本質をついた論が展開されており、ここでさらに本書の満足感が増幅させられたように思う。

 西尾氏の学問的ニーチェ研究の本『ニーチェ』二部作も見てみたいと思った。
 

愚痴の聞き方

 つい先日の事であったが、仕事が終わって僕が帰途についていた時、僕の後方にある若い女性の二人連れが同じ方向に向かって歩いていた。

 別段僕には行き違いの人の話を聞く趣味はないものの、同じ速度で二人連れも歩いていたので、彼女達の話が否応もなく聞こえてきた。

 「いや〜、…ドンマイ!」

 その一方の甲高くわざとらしい声が聞こえてきた。

 他方の女性が何か職場の愚痴を話しているものとみえ(この女性は声を抑えて話しているので僕には何も聞こえなかった。)、それをその甲高女性がなぐさめているという感じであった。
 (あ〜、あ〜、日頃働いていたら愚痴の一つや二つはあるだろう。その愚痴を聞いてもらう事で次の日も頑張ろうかという気になるのだろう。)
 と、僕は日常のありがちな一光景として彼女達の話に耳を傾けていた。


 ドンマイの声に促されてか、トーンは低いものの愚痴る女性はさらに甲高女に愚痴を話していく。

 「いや〜、…ドンマイ!」

 話は展開し(たようにみえ)、愚痴る女性はまくしたてるように調子を強めて甲高女に愚痴る。

 「いや〜、…ドンマイ!」



 絶対聞いてないでしょ、あんた!聞く気ないでしょ!
 全く同じ調子で三回同じフレーズを言いやがって。
 機械仕掛けのオレンジかって!
 しまいにゃ「いや〜、ゼンマイ」って言うんじゃねえかと期待した自分が悔しい。

 これはおよそ10秒〜20秒の間に起こった出来事だったのだが、それが僕にはなんとも面白かった。だから、こちとら横に並んで二人の話の行方を探ったろと思ったものの、オヤジになりかけている男が一人ニヤニヤ笑ってついてくるのも気味が悪いだろうなあと反省し、スタスタ歩く速度を速めた。

 その後彼女達がどうなったか知らない。
 愚痴っている子が「ちょっと話聞いてる?」と甲高女に尋ねたかも知らない。
 ただ一つ分かる事は、今においても愚痴っていた子の愚痴は一切解決していないだろうと言う事だけである。

ハンナラ党とウリ党?

 韓国には日本でも名の知られている政党が二つある。ハンナラ党ウリ党である。
 よくよく考えてみると、他国の政党でその意味が判然としないものは、韓国の政党だけではないかとハタと気がついた。
 例えば、まあ、中国共産党とかならまだ当たり前に日本語に訳されるであろうが、フランスの極右政党国民戦線もわざわざ日本語にしているし、何故韓国の政党だけハングルなのだろうか。
 最近ちょっとだけ韓国語をやるようになったため、その背景が何となくわかったのでここに書く次第であります。

 ハンナラ党とは、「韓国党」の意味である。ハン=韓、ナラ=国で、韓国党となる。ウリ党とは、「私たちの党」の意味である。ウリ=私たちで、私たちの党となる。
 Wikiで見てみると、ハンナラ党は「大いなる党」らしいが、まあ、韓国党と同様ナショナリスティックな政党を指している事は間違いない。ウリ党は、正式な党名が「ヨルリン・ウリ党」というらしく、「開かれたわが党」という訳され方がされているものの、「開かれた私たち」という言葉が指し示すのは、リベラルな価値観と太陽政策に見られるような南北合一への期待―つまり民族意識の強調―の二つであろうから、やはりレイシャリズムが反映された政党である。

 僕はこれに関して「ナショナリスティックなモノはいかん」と叫ぶような朝日的な人間ではない。これらの政党に対してはなかなか悪くない名前だと思っているくらいだ。ウリ党に関しては、「みんなの党」を想起させられて、「何とかしろよ」と思ってしまうけれども。

 日本のマスコミは、それこそ朝日的なマスコミは何故今までこれらの政党名をはっきりと訳さなかったか。アメリカの「共和党」や「民主党」を「Republican Party」とか「Democratic Party」とは紹介しないのに、何故韓国の政党のみを訳さなかったのか?

 これはやはり戦後の朝鮮半島への贖罪意識が反映されたものである。一種の自主規制である。なぜなら、フランスに関しては極右政党国民戦線と如何にも忌避感を抱かせるような訳語をちゃんと用意しているからである。韓国のナショナリズムに対してはそういった印象を抱かせないようにしようという印象操作がここにはあるような気がする。

 …ん〜、だから何だと言われればそれまでであるが、ちょっと思ったから書いたのさ。

園子音(そのしおん)は退化した①

 2010年に観た映画で一番良かったものは何かと言われたら、洋画邦画問わず『愛のむきだし』だったと断言できる。
 だが、その後園子音の『ちゃんと伝える』とか『気球クラブ、その後』とかを観たら何ともパッとしなくて、園はこれらの映画をそもそも撮りたかったのかどうか怪しまざるを得ないほど僕に何の障害も感慨もない映画であったから、ちょっと園子音の評価が難しいと思っていた。
 そして、2010年の夏くらいだったか『冷たい熱帯魚』の特報を観て、すかさず観たいと思った。これだろう、と。これこそあの「むきだす」園子音が出てくるだろうと思っていたのだ。
 『冷たい熱帯魚』は確かにむきだしていた。だが…。
 園自身はこの映画のインタビューに応え、観客に嫌われたいというような事を発言していたが、確かに僕は園子音を嫌いになった。
 彼の悪ぶった感じがガキっぽいという事ではない。彼の反秩序的な感じが気に食わないという事でもない。また、彼のエログロナンセンス的なノリが気に食わないというのでもないのだ。それは『愛のむきだし』にもあったからだ。
 僕が園を嫌いになった理由は、彼が「確実に」退化したからである。
 いわゆる芸術家、表現者というものは、自分の作る作品について全てに自覚的である必要はないのであろう。なので、これは園子音という映画監督に対する批判としては適当ではないのかもしれない。だが、これは言わざるを得ない根本的な退化現象であるから、僕はここで言うのである。


 ※これから映画の内容に入るので、『愛のむきだし』及び『冷たい熱帯魚』を観たいけどまだ観られていないという人は読まないように注意してください。


 『愛のむきだし』は名作で『冷たい熱帯魚』は駄作であるという評価は、前者がハッピーエンドであり後者がアンハッピーエンドだったからだと言われるかもしれないが、そう問題は単純なものではない。これは現代社会における我々の人間関係の結び方に対する表現者のスタンスの問題である。
 それぞれの映画は実際に起こった話をベースにしている。『愛のむきだし』は新興宗教をテーマにし『冷たい熱帯魚』は連続殺人(快楽殺人に近い)をテーマにしている。
 現代社会の暗部というものに吸引されてしまう現代人の不幸と葛藤がそれらの主題であろうが、この主題に対して園子音は『愛のむきだし』と『冷たい熱帯魚』では全く正反対の解答を与えてしまっている。
 『愛のむきだし』では、男主人公は少年期の父親の愛の不在によるトラウマから特別な人からの承認を、盗撮―自己の修練の場としての―によって埋めようとしている。そこに女主人公が現れ、彼はその女主人公に生きがいを求める。女主人公はしょうもない母親によるトラウマから特別な人からの承認を人々への反発心・喧嘩の強さ・同性愛とでカバーしようとする。
 女は自分の喧嘩の際、助けてくれた女性(実は男主人公)に惚れてしまい、その女性であるとウソをついて近づいた女と体の関係を重ねるうちに、新興宗教へと引き込まれ洗脳されてしまう。
 男は自分が惚れた女主人公を助けるため、新興宗教施設へと乗り込み、女を何とか洗脳から解き放つことに成功する。が、洗脳から解除された女が彼を訪れた時、男は精神病棟にいた。女が如何に話しかけようともすでに幼児化した男を変えることは出来ない。
 男が護送される時、必死になって追いかける女の絶叫についに男は目覚め、女と男はがっしりと手と手をつなぐ。

 『愛のむきだし』のストーリーは、実は彼らの関係が今後正常に行われるかどうかを何も保証していない。彼らの「むきだされた愛」はただ単なる裸身に過ぎない。その愛は正しいのかどうか。また継続可能なものなのかどうかはもはや関係がない。
 「むきだされた愛」とは、今ある生の意味を超えたもの、いや、それ自体が生の意味として固定されるものだ。現代社会において自明な前提などなく、疑われない意味などない。このような状況において若者が向かうものは、本音の関係であり、裸の私を承認してくれる他者の存在である。
 「むきだされた愛」にとっては、気軽な関係などいらない。『パレード』で見られるようなめんどくさくない関係など関係ではない。めんどくさいかどうかそんな事は問題にはならない。如何に自分がめんどくさい状態におかれようが、如何に自分が死に近い場所までいこうが構わない。
 死に対する反省によって生の意味が喚起される?生とはそういう「問題」ではないのだ。
 「むきだされた愛」以外に、我々の本心のぶつけあい以外に、我々の生の充実などどこにあるのか。あり得ない。「むきだされた愛」にとって、自身のぶつかり合い以外の全ての存在は後景に退く。いや、後景には何も無くなるのだ。
 ぶつかり合う事、ぶつけ合う事、それが生だ。評判?くそくらえ。将来?そんなものいらない。地位?安全?そんなものが私に何の意味があるだろう。私の予想や記憶、未来への志向、過去への沈潜など何でもない。今が、今の関係の衝撃こそが生なのだ。

 この構えには強烈な吸引力がある。この構えを用意した日本社会の負の側面はいくらでも強調できよう。日常のつまらなさ、成長の実感のなさ、将来への不安、身近な関係への不信など社会の希薄化がもたらした日常的な生の意味の動揺は、若者にこの「現在への没入」という意味での「むきだされた愛」を用意した。いや、そこに追い込んだ。
 だが、それに対するアンチテーゼでさえまだそのくだらない社会への依存を現わしてしまうものだ。それを「むきだされた愛」達は知っている。そんなものへの依存を拒否し、関係の衝撃という事のみで生きるというある種の刹那主義がこの構えにはある。
 が、まだここには生の回復がある。生への志向が、関係への志向があるのだ。

 『冷たい熱帯魚』にはその志向はない。微塵もない。そこには生の否定、関係への不信以外ない。つまり『愛のむきだし』のアンチテーゼが『冷たい熱帯魚』なのである。

 『冷たい熱帯魚』とは、園子音の「むきだされた」裸の心がシーシュポス的苦行(日常の意味のなさ)に打ち負かされた事によって湧き上がった、彼の生への呪詛なのではなかろうか。

 次回、『冷たい熱帯魚』の考察を行う。