正常と異常の間

文筆家三浦純平による、思想、政治、映画、笑いなどの感想録

園子音(そのしおん)は退化した①

 2010年に観た映画で一番良かったものは何かと言われたら、洋画邦画問わず『愛のむきだし』だったと断言できる。
 だが、その後園子音の『ちゃんと伝える』とか『気球クラブ、その後』とかを観たら何ともパッとしなくて、園はこれらの映画をそもそも撮りたかったのかどうか怪しまざるを得ないほど僕に何の障害も感慨もない映画であったから、ちょっと園子音の評価が難しいと思っていた。
 そして、2010年の夏くらいだったか『冷たい熱帯魚』の特報を観て、すかさず観たいと思った。これだろう、と。これこそあの「むきだす」園子音が出てくるだろうと思っていたのだ。
 『冷たい熱帯魚』は確かにむきだしていた。だが…。
 園自身はこの映画のインタビューに応え、観客に嫌われたいというような事を発言していたが、確かに僕は園子音を嫌いになった。
 彼の悪ぶった感じがガキっぽいという事ではない。彼の反秩序的な感じが気に食わないという事でもない。また、彼のエログロナンセンス的なノリが気に食わないというのでもないのだ。それは『愛のむきだし』にもあったからだ。
 僕が園を嫌いになった理由は、彼が「確実に」退化したからである。
 いわゆる芸術家、表現者というものは、自分の作る作品について全てに自覚的である必要はないのであろう。なので、これは園子音という映画監督に対する批判としては適当ではないのかもしれない。だが、これは言わざるを得ない根本的な退化現象であるから、僕はここで言うのである。


 ※これから映画の内容に入るので、『愛のむきだし』及び『冷たい熱帯魚』を観たいけどまだ観られていないという人は読まないように注意してください。


 『愛のむきだし』は名作で『冷たい熱帯魚』は駄作であるという評価は、前者がハッピーエンドであり後者がアンハッピーエンドだったからだと言われるかもしれないが、そう問題は単純なものではない。これは現代社会における我々の人間関係の結び方に対する表現者のスタンスの問題である。
 それぞれの映画は実際に起こった話をベースにしている。『愛のむきだし』は新興宗教をテーマにし『冷たい熱帯魚』は連続殺人(快楽殺人に近い)をテーマにしている。
 現代社会の暗部というものに吸引されてしまう現代人の不幸と葛藤がそれらの主題であろうが、この主題に対して園子音は『愛のむきだし』と『冷たい熱帯魚』では全く正反対の解答を与えてしまっている。
 『愛のむきだし』では、男主人公は少年期の父親の愛の不在によるトラウマから特別な人からの承認を、盗撮―自己の修練の場としての―によって埋めようとしている。そこに女主人公が現れ、彼はその女主人公に生きがいを求める。女主人公はしょうもない母親によるトラウマから特別な人からの承認を人々への反発心・喧嘩の強さ・同性愛とでカバーしようとする。
 女は自分の喧嘩の際、助けてくれた女性(実は男主人公)に惚れてしまい、その女性であるとウソをついて近づいた女と体の関係を重ねるうちに、新興宗教へと引き込まれ洗脳されてしまう。
 男は自分が惚れた女主人公を助けるため、新興宗教施設へと乗り込み、女を何とか洗脳から解き放つことに成功する。が、洗脳から解除された女が彼を訪れた時、男は精神病棟にいた。女が如何に話しかけようともすでに幼児化した男を変えることは出来ない。
 男が護送される時、必死になって追いかける女の絶叫についに男は目覚め、女と男はがっしりと手と手をつなぐ。

 『愛のむきだし』のストーリーは、実は彼らの関係が今後正常に行われるかどうかを何も保証していない。彼らの「むきだされた愛」はただ単なる裸身に過ぎない。その愛は正しいのかどうか。また継続可能なものなのかどうかはもはや関係がない。
 「むきだされた愛」とは、今ある生の意味を超えたもの、いや、それ自体が生の意味として固定されるものだ。現代社会において自明な前提などなく、疑われない意味などない。このような状況において若者が向かうものは、本音の関係であり、裸の私を承認してくれる他者の存在である。
 「むきだされた愛」にとっては、気軽な関係などいらない。『パレード』で見られるようなめんどくさくない関係など関係ではない。めんどくさいかどうかそんな事は問題にはならない。如何に自分がめんどくさい状態におかれようが、如何に自分が死に近い場所までいこうが構わない。
 死に対する反省によって生の意味が喚起される?生とはそういう「問題」ではないのだ。
 「むきだされた愛」以外に、我々の本心のぶつけあい以外に、我々の生の充実などどこにあるのか。あり得ない。「むきだされた愛」にとって、自身のぶつかり合い以外の全ての存在は後景に退く。いや、後景には何も無くなるのだ。
 ぶつかり合う事、ぶつけ合う事、それが生だ。評判?くそくらえ。将来?そんなものいらない。地位?安全?そんなものが私に何の意味があるだろう。私の予想や記憶、未来への志向、過去への沈潜など何でもない。今が、今の関係の衝撃こそが生なのだ。

 この構えには強烈な吸引力がある。この構えを用意した日本社会の負の側面はいくらでも強調できよう。日常のつまらなさ、成長の実感のなさ、将来への不安、身近な関係への不信など社会の希薄化がもたらした日常的な生の意味の動揺は、若者にこの「現在への没入」という意味での「むきだされた愛」を用意した。いや、そこに追い込んだ。
 だが、それに対するアンチテーゼでさえまだそのくだらない社会への依存を現わしてしまうものだ。それを「むきだされた愛」達は知っている。そんなものへの依存を拒否し、関係の衝撃という事のみで生きるというある種の刹那主義がこの構えにはある。
 が、まだここには生の回復がある。生への志向が、関係への志向があるのだ。

 『冷たい熱帯魚』にはその志向はない。微塵もない。そこには生の否定、関係への不信以外ない。つまり『愛のむきだし』のアンチテーゼが『冷たい熱帯魚』なのである。

 『冷たい熱帯魚』とは、園子音の「むきだされた」裸の心がシーシュポス的苦行(日常の意味のなさ)に打ち負かされた事によって湧き上がった、彼の生への呪詛なのではなかろうか。

 次回、『冷たい熱帯魚』の考察を行う。