正常と異常の間

文筆家三浦純平による、思想、政治、映画、笑いなどの感想録

西尾幹二『ニーチェとの対話』(講談社現代新書)

 評価★★★★★★★☆☆☆

 西尾幹二氏については保守派の重鎮であるという事くらいは知っていた。
 また、ドイツ哲学者(ショーペンハウアーなど)の著作を訳したり、「ニーチェ研究者」であるという事―吉本隆明氏がどこかで言っていた事―を知っていた位で彼の著作に目を通した事は今までなかった。
 僕の西尾氏に対する印象―テレビなどで映る彼―はひどく神経質で気難しい人というものであったから、古本屋でこの『ニーチェとの対話』を買った時にもニーチェについて神経質に偏執的な文体で語っているのだろうと高をくくっていた。
 だが、この予想は良い意味で覆された。
 そして本書を読み終えた今、西尾氏のおおまかな主張には「ご説ごもっとも」と言う気にさせられたのである。

 本書は1978年初版。ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を西尾氏の人生経験の範囲で解釈するというエッセイ風の評論である。
 西尾氏の「高貴な生」を如何にして生きるかという苦悶がこの書に反映されている…というか本書は「西尾幹二の問題」を明らかにする本だという方が正しい。
 体裁としては「ツァラトゥストラ私評」という副題がついているように、ニーチェの思想を問題にしているようにみえるが、事実は違う。
 それぞれの章の主題について『ツァラトゥストラ』やニーチェの主著からニーチェを語るというやり口を取っているものの、それに付随した戦後日本を語る西尾氏の高揚した問題意識がニーチェを徐々に追いやっていき、分量としては西尾氏の問題意識を語っている方が多いのではないかという気がした。
 だが、そもそもそれは「まえがき」において西尾氏が名言している事であり、西尾氏が引用しているニーチェの言葉にも、

 「誰でも人は、結局のところ、自分自身を体験するだけなのだ。」(P.7)

とあるのであるから、目くじらを立てる必要もない。

 加えてその西尾氏の戦後日本の問題―大衆・競争・福祉・教育―に対する見解は正確であり、何も本書の価値を軽減するものとして西尾氏の見解は現れるのでなく、ニーチェ解釈と西尾氏の問題意識が良い相互作用をもたらし、僕の読後感を満足させるに至った。
 西尾氏の問題意識について具体例を挙げておけば、福祉つまり生きる事そのものを目的としてしまう思想にはニヒリズムが忍び寄るという事。高き生への希望をその思想は無自覚に粉砕するに至るであろうという事。

「今日の世界に私たちの達成するいかなる理想や目標が存在するであろうか。万人に共通するいかなる生の意味が存在するであろうか。福祉充実であれ、産業維持であれ、個人も国家も、よりよき生活を目標にする以外に、生活の目標を立てようがないのである。よりよき生活とは、少しでも便利に豊かに暮すための単なる条件づくりにほかならず、われわれはなにかのために生きるのではなく、結局、生きるために生きる以外に生の目標を立てようがない。ということは、目標は存在しないということにほかならず、したがってこれほどひどいニヒリズムはないともいえる。」(P.90-91)
 70年代の時代状況を指して西尾氏は言われたのであろうが、今日の日本にも十二分に当てはまる。

 また「言語について」と題された章においての言葉に関する西尾氏の見解も短い章であるにも関わらず、本質をついた論が展開されており、ここでさらに本書の満足感が増幅させられたように思う。

 西尾氏の学問的ニーチェ研究の本『ニーチェ』二部作も見てみたいと思った。